2017年11月28日火曜日

[MMA]
格闘技雑誌が一時期、UFCをモデルにしてスポーツ化する方向性に舵を切っていたことを先週あたりに書いたが、私はその時期の雑誌が嫌いだったわけじゃ全くない。むしろその時期の格闘技誌は、様々な雑誌の中でも群を抜いた企画を立てていたと(お世辞ではなく)思っていた。
その理由は今思うと、こうである。選手の声を届けるインタビューに加えて技術解説・格闘技文化論を並記し、ファンと実践者の裾野を広げながら、さらに体育会系的・精神論的なものの弊害を超えようとする、苦闘の跡が見えていたからだ。ここまで書くと大げさかも知れないが、一時期はUFCの隆盛と国内の下火(そして無論、部数の低下)という対比から来る危機感を元に様々な試みがなされていた時期が、正確には言えないが2010年前後からしばらくあったと思う。
その中で特筆すべきはやはり、『GONG格闘技』に連載していた増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』であった。私はこれを連載で読んでいた時、著者はこの埋もれた歴史を書くためにどれ位の年月を費やしたのだろうか、という感慨を禁じ得なかった。様々な評価はあるだろうが、これが著者しか書けなかった本であることは確かである。忘却された歴史を表に出さずにはいられないという著者の執念と、戦前の武徳館と戦後の柔道界との間にある、またブラジリアン柔術から現代のMMAとの間にあるミッシング・リンクを解き明かそうとした視点の独自性に、なぜこの連載がもっと日の目を見ないのだろうかと思っていた。
また同時期くらい(記憶が曖昧だが)に確か、柳澤健が組み技格闘技の源流を訪ねる記事を『FIGHT&LIFE』に連載していた。寡聞にしてその後どうなったのか知らないのだが、これも面白い連載だった。組み技格闘技が中央アジアから西方へ向かうとレスリングとして伝播し、東方へはモンゴル−朝鮮−日本の相撲として伝わってゆくことを追ったものだったと思う。当時、歴史的・文化論的な広がりを指摘した格闘技論として、興味深く読んだことを覚えている(単行本化してないのだろうか?)。
その後、国内の中小格闘技団体が興行を担うようになり、またパンクラスのZuffaとの協力、そして何よりRIZINの発足により、雑誌企画の方向性は変わっていった。そういった団体が活動すること自体は悪くないが、雑誌が暗中模索の路線を取りやめたあたりで、意欲的・冒険的な企画が徐々に縮小していったことは残念に思っていたのだった。
しかし国内ならずとも、海外でも似たようなことは起こっていたのではないかと思う。現在では更新されていないが、一時期ZuffaがVICEと組んでyoutube上に「FIGHTLAND」というチャンネルを作っていた。これは世界中で格闘技がどういう場所で営まれているか、という取材をしたドキュメンタリー・チャンネルだった。アメリカの(今はない)メガジムからタイの刑務所ファイトまで、モンサントの支配に抗議するハワイのMMAファイターからイングランドのベアナックルファイターまで、世界の知られざる、容易にアクセスできない場所で日々営まれている格闘技の姿を追った番組を作っていた。
その中で私が最も衝撃を受けたのは、「中東のMMA(MMA in the Middle East)」である。ヨルダンのとあるジムを中心に、戦争や争いごとから切り離せない形で格闘技を習う人々、敬虔なムスリムで合気道などと共に精神的成長の一環としてMMAを学ぶ者、アラブ初の柔術の賞を獲った女性が出てきて、そのような所で人々が集い格闘技を営んでいることに、ビジネスでもショーでもない、元来の「力」に処することとしての格闘技という存在をまざまざと見せられた気がしたのだった。
そのような動画がクルディスタンの女性テコンドー選手を追った動画や、アルバカーキの名門、ジャクソン=ウィンク・アカデミーとニューメキシコ州の日常を撮影した動画とともに、並列されアップロードされているところに、何とも言えない面白さ、あえていえば「Mixed Martial Arts」という言葉の本来的な実践を見た気がしたのだった。また更新される日が、あるいは別の人々によって新たな動画が作成する日は来るのだろうか。

2017年11月26日日曜日

UFCファイトナイト122:ビスピンvs.ガステラム

リー・ジンリャンvs.ザック・オットー(UFCファイトナイト122・上海
ケルヴィン・ガステラムvs.マイケル・ビスピン(同上)
UFC初の中国本土での開催。プレリムの試合では、19歳のソン・ヤドンがいかにもUFC好みの鮮やかなストライキングによる勝利を見せた以外、地元中国勢の選手は勢いよく特攻→相手のペースに削られて撃沈、という選手が多かった。ソンは散打からMMAに転向後、クンルン・ファイト等に出ていたようだが、散打というよりもボクシング的な打撃で、体幹が全くブレないままに鋭く高い攻撃力を持ったパンチを出していた。今後の注目株になるかもしれない。
しかしUFCルーキー勢と違い、ベテランのリー・ジンリャンは極めて落ち着いた試合運びで危なげなく勝利を手に入れた。リーは上とボディーにストレートを散らしつつ、飛び込もうとするザック・オットーをフックで牽制し続ける。オットーは前蹴りなどで距離を詰めようとするが、リー・ジンリャンは相手の蹴りを掴み、リーチの長さを活かした伸びるストレートを顎に叩き込む。倒れて回り続けるオットーにパウンドを連打し、1Rで試合を決めた。「ザ・リーチ」(蛭)という名に相応しい、喰らいつくような伸びる打撃で終始距離を支配し続けた試合運びであった。
アンデウソン・シウバのピンチヒッターとして、3週間というショートノーティスでオクタゴン入りをしたマイケル・ビスピンGSP戦の汚名をそそぎたいと言っていたが、計量ではかなり腹回りの肉が落ちており、正直あまり調子が良さそうには見えなかった。
ビスピンの打撃はコンビネーションの回転が得意で、一発の強さはそこまで感じさせないが、絶え間なくフットワークを使い、スタミナの強靭さで相手のディフェンスをこじ開けてゆくスタイルである。
ケルヴィン・ガステラムは、そこを十分に注意した戦略を取っていた。ガステラムはサウスポーの構えから左ミドルをムエタイ的に相手の腕でも構わず打ち込んでゆく。これはダメージを狙うというよりも、ビスピンのコンビネーションの連携を断ち切るために出されていた。また時々右手を前に出してぐるぐると回し、ビスピンのジャブもしくは左フックが攻撃の起点となるのを防いでゆく。左がつかえたビスピンが接近したところで右を出したが、そのパンチが伸び切ったタイミングを逃さず、ガステラムが放った素早いワンツーの左が顎を完璧にクリーンヒット。ビスピンはダウン、これで勝負が決まった。ガステラムがビスピンのスタイルをうまく封じ込め殺しきった1RKO勝利であった。

2017年11月25日土曜日

[読了]
ジェームズ・C・スコット『ゾミア 脱国家の世界史』(佐藤仁監訳、みすず書房、2013年9月)
ミャンマーといえば、格闘技ではラウェイである。一般的には、アウン・サン・スーチーと軍事政権、そして豊かな穀倉地帯、最近ではロヒンギャ問題が有名だろうか。軍事政権が民主化路線を取り入れて以降、ラウェイをプロモーションに使っていると思われるが、一度は生で見てみたいものだと思っている。
ぶっちゃけ、私はミャンマーには全然詳しくない。だがかつて高野秀行『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』を読んだ際、私ははじめてミャンマー内には複数の自治州があり、部族と政府の間で絶えず内戦が起こっていたことを知った。ミャンマーといえば「軍事政権の支配で極めて独裁的な政府の力が隅々まで行き渡っているのだろう」と思っていた私は、高野の本で、軍事政権国家とはいっても部族社会の一種のような力しかなく、山岳地帯にある自治州では武装ゲリラたちが大きな支配力を持っている、政治的にはむしろ隙間だらけでパッチワーク状の地域であることを知らされたのだった。
『ゾミア』はアメリカのイェール大教授であるジェームズ・C・スコットが、ミャンマーも含む東南アジアの広い地域において、平地における国家の支配を逃れて山岳地帯に移っていった人々に着目した本である。彼はその人々を「ゾミア」と呼び、そこにむしろ脱国家の契機が見てとれると主張する。通常、平地の国家が「文化」的であり、山岳地帯の少数民族などはそこから取り残された「遅れた」「野蛮」な社会である、というイメージがある所を、スコットは逆転してとらえる。山岳地帯に住む部族は、むしろ進んで国家の支配を逃れ移住した人々であり、定住以降に改めて選びとられた生存様式なのである。
低地民の想像は、間違った歴史認識に基づいている。山の民は、何々以前[プレ]の状態にあるわけではない。彼らの生き方はむしろ、以後[ポスト]、 つまり灌漑水田以後、定住以後、支配対象以後、そしてもしかすると識字以後といったほうがよい。彼らは権力に反発して意図的に国家なき状態を作りだした人々であり、自ら国家の手中に陥らないように注意しながらも諸国家からなる世界にうまく順応してきた人々なのである。(p.342)
著者の主張は、社会構造は常に選びとられた結果であり、「未開」とされる状態も既に選択の結果としてそうなっているものだと見なす点にある。国家が支配のために「密集した居住地、定住生活、穀物栽培、確立した土地所有権、土地所有による権力と富の格差」を利用しあるいは作り出すのに対して、山岳に住まう「ゾミア」と本書で呼びなされる人々は、国家と距離を取りあるいは戦った結果、あえて支配力が低い山岳に撤退して「狩猟採集、牧畜、焼畑」などの生業を選びとった人々なのである。
ピエール・クラストル『国家に抗する社会』の影響が色濃い本書は、通信ネットワークが地球の隅々までを覆った現在では通用するパラダイムではないが、国家のヒエラルキーを中心とする社会に対し、より平等主義的な社会形態を考える上のヒントとして提示されているものなのだろうと受け取った。スコットは例えば山地民が「歴史」を持たないのは、持てないのではなく、「歴史」が生み出す血統などの不平等を出現させないため、あえて持たないようにしているのだと解釈する。こういった視点の取り方は、色々と現代社会を考察する上でも確かにヒントになるものだと思う(実際、現代社会に合わない人々は絶対に存在するわけで、その逃げ場がないことが引きこもり等々として現れるといったことは、考えうる事柄だろう)。
ひとつ直接的にこの本を読んで考えさせられるのは、最近のロヒンギャ問題である。この図式からするとロヒンギャとは、様々な地域から国家の支配を逃れて山地を選び取った人々がむしろ後から呼ばれるようになった名前であり、作り出された「部族」名に過ぎないということだ。『ゾミア』ではこのような集団のアイデンティティは極めて流動的なものであり、確たる民族が古代より存在していた訳ではない、とされている。これはいわば、戦略的に語られるようになったに過ぎない名称なのである。
そしてビルマ研究家の根本敬氏も触れている通り、この問題でスーチーを叩くことは目測を誤った反応だとしか思えない。だが欧米系のメディアから保守系メディアまでがこの問題を取り上げる奥では、スーチー叩きこそが主眼なのではと勘ぐらせられるような気持ちになってしまうのは、考えすぎだろうか。ロヒンギャがゾミアの一種であるとすれば、本来的に問題なのはそこに対する国家の干渉であり、むしろそこから手を引くことこそが、問題解決のためには重要となってくるからである。

2017年11月19日日曜日

[MMA]
フランク・カマチョvs.ダミアン・ブラウン(UFCファイトナイト121・シドニー
ファブリシオ・ヴェウドゥムvs.マーチン・ティブラ(同上)
フランク・カマチョはかつてPXCの中継で見たことがあり、粕谷優介に負けたが中村K太郎松本光史らに勝つなど、当時の日本の選手勢をほとんど寄せ付けない強さを見せていた。だがUFCデビュー戦ではリー・ジンリャンに負け、「やっぱりUFCはあのカマチョも手が出ないほどレベルが高いのか…」と思わされつつ、今回の試合も楽しみにしていたのだった(ウェルターからライト級に落としている)。一方のダミアン・ブラウンはオーストラリア軍にいたこともあり、アフガニスタンに送られた後でPTSDを発症、その療養も兼ねMMAをはじめたという経歴の持ち主とのことである。ベースには禅道会があるようだ。
試合はカマチョのボクシングとブラウンのMMA的な打撃という、スタイルの違いで鎬を削り合う展開となった。1Rでブラウンがフットワークを使いつつタックルも仕掛けてゆくと、カマチョはディフェンスから滑らかに打撃に繋げてゆく動き。持ち上げられてもすぐに戻し、肩パンチというオールドスタイルな技を混ぜつつ、ブラウンの組みに対処してゆく。ブラウンもラウンド最後にRNCを仕掛け見せ場を作るが、極め切ることはできない。
カマチョは体の圧力と重そうな打撃で相手の体力を奪ってゆくタイプ、ブラウンはあらゆる角度から相手の隙をこじ開けてゆこうとするタイプか(動き自体はチャック・リデルぽい感じ)。2Rはコンタクトが打撃中心となり、両者のパンチが交錯する。しかし結果として、的確で速いストレート系のコンビネーションとスタミナを持つカマチョが競り勝った印象だった。ブラウンは振り回すフックが多く、それもカマチョは見切っていた。
3Rはカマチョのボクシングで何度もブラウンをケージ際に追い詰め、相手の足を奪ったのが良かった。見合って叫び合う場面も見られるなど、「MMA」というより「総合格闘技」的な色も強く、見ている時から「こりゃファイト・オブ・ザ・ナイト行くかもな」という好試合だった。カマチョは即再戦もOKと言っているようだ。
ヴェウドゥムティブラもまた、スタイルの対比がはっきりしたファイトだった。ポーランド出身のティブラの所属ジムはジャクソン=ウィンク・アカデミーということで、セコンドにグレッグ・ジャクソンの姿が見えたが、まさにジョン・ジョーンズを彷彿とさせる動き。相手の膝を踵で押し込むようなオブリーク・キックを出しつつ、頻繁に構えの左右を変え、ボディワークと手の動きを最大に使いながら攻撃を繰り広げる。一方のヴェウドゥムはキングスMMAハファエル・コルデイロ仕込みの強力でタイミング抜群のミドル、終盤にはハイも交えた蹴りを繰り出してゆく。コツコツとパンチも当てつつ、首相撲からの膝や、飛び膝も何度も狙っていた。
やはりミオチッチ戦の反省があるのかヴェウドゥムは突っ込みすぎず、5Rをフルに使って相手を弱らせていった。ティブラは構えを変えることで狙いを絞らせない作戦だったのかもしれないが、ヴェウドゥムはどういう構えでも動じることなくオーソドックスな打撃を打ち込んでゆく。もちろんヴェウドゥムのサブミッションを含めた総合的な力があった上での話だが、打撃の基礎を高いレベルに磨き上げてゆくことで、相手が攻め方を変えても対応できる好例を示していた。訴訟トラブルもあり若干心配ではあったが、盤石の試合運びだったと言える。

2017年11月18日土曜日

[MMA]
マクレガー乱入騒動の追記。謝罪文を出したマクレガーだが、その中でゴダードの相手選手に対するレフェリングを責め、自分がかつてケージで死亡事故を見たから過剰反応をした云々という言い訳が書かれている。ダン・ハーディはこれは謝罪になっていないとして、謝罪の文句の中にクソを挟む「糞サンドイッチ」だと非難した
ルーク・トーマス(MMAFighting.com, SiriusXM)もハーディと同じように、これが全く謝罪になっていないと批判している。ゴダードの綴り(GodardではなくGoddard)も間違っており、おまけに、乱入した際のマクレガーがウォードに負けた選手(ジョン・レッドモンド)のことを全然構わず、座っている彼をむしろ押し倒していることも指摘。これでマクレガーに例外的な処置をするようなら、どこでも見られるような金持ちだけの優遇策と一緒であり、それは許されないこと等々を語っている。
ついでに。コルビー・コーヴィントンUFCファイトナイト119@サンパウロでデミアン・マイアを下した際に、ブラジル人に対して「filthy animals」と侮蔑したことはすでに色々ニュースになっている。シドニーでコーヴィントンに遭遇したファブリシオ・ヴェウドゥムがブーメランを投げつけ、結果訴えられてしまったようだが、ブーメランというのはアボリジニ由来なので、お土産か何かで手にしていたのだろうか。
コーヴィントンはプロモーションで言ったのか本気で言ったのか分からないが、まあ、どっちでも同じことだ。それにしても、彼はジョン・ジョーンズがブーメランを礼賛したことに対しては批判的である点、奇妙に感じる。「自分がケージ外の不特定多数に向けて差別発言をするのは構わないが、自分はそれに対する反応を選べる」と思っているのだとしたら、相当めでたい感性だと言わざるを得ないだろう。差別者は、自分が差別されることなど決してないと思っているのであれば、単なる日和見の多数派志向に過ぎない。

※以下さらに追記
ゴダードのフェイスブックの声明が記事になっているので、彼の言葉の最後の部分だけ試みに訳してみた。
「私は何年も以前からコナーを知っていたし、立ち合いもレフェリングもしてきた。彼の華々しい成功を支持しさえもしてきた。公に彼を褒め、他の人が彼に敵対した時には見解を示してきた。彼が今そうであるメガ・スターになる前から、彼が名声と財産を貯め込む前から知っていたー違いと言えば、私が彼を同じように尊敬し、その頃と何の違いもなしに彼を扱うということにある。
 MMAというスポーツはより大局的になり、私を本当に知っている人なら私の一番の関心がMMAというスポーツにあるということを強調するだろう。ダブリンを発つ土曜日の朝に言ったようにー私は誠実に、信念と基準をもってー何時でも、毎回、仕事をしてきた。」

2017年11月15日水曜日

[MMA]
ベラトール187で、チームメイトであるチャーリー・ウォードの勝利に狂喜したコナー・マクレガーが試合後ケージに乱入。レフェリーのマーク・ゴダードに因縁をつけた後で一度出て行くも、また戻ってきて柵によじ登り、さらにコミッショナーを平手打ちしたことが話題になっている。
マクレガーの行動は、本人も語っていたがWWEの影響も強い。舞台裏を巻き込む手法などは、ナチュラルにやっている部分もあるのかもしれないが、ショーマンとして優秀なものであろう。実際、ベラトールも騒動をしっかり宣伝に利用している(この手法は、WWEとの関係を考えると、かつてのトランプにも非常に似たものを感じる)。
少し前、日本のMMAもUFCのように競技至上主義にならなければというムードを格闘雑誌が醸し出していたことがあった。だがその前にUFCがショービジネスとしての性格が強くなり、RIZINの登場によってさらに方向性がグダグダになりつつ休刊を迎えた。今はどこも、試合はガチ、その他のストーリーはプロレス、という方向性が結局大まかな路線となっており、UFCのランキングの意味もボクシング(団体にもよるが)ほどには競技性を優先させたものとなっていない。
私は、ファイトからシリアスな競技性が消えたらそもそもMMAの存在意義がなくなってしまうので、レフェリーやコミッショナーに干渉するのはやはり当然ご法度という意見である。ケージやリング上でのガチ性を保証するのがレフェリーであることが、どこまで意識されているだろうか。彼らに圧力をかけてしまうと、MMAという競技自体が成り立たないのだ。この意味では、場外の出来事はすべてサイドストーリーである。
今回の件では、マクレガーはマーク・ゴダードを罵っていた。それは以前のUFCファイトナイト・ゲダンスクにおいて、やはりチームメイトのアーテム・ロボフアンドレ・フィリが下した際、裁いていたレフェリーがゴダードだったことがあってだと言う。だがどう考えても、これはロボフがフィリに敵わなかったことが全てである。ロボフはマクレガーにかなり似たスタイルで戦っているが、リーチやスキルの面で、このスタイルは彼には向いていないように思える。
加えて言えば、マーク・ゴダードはキース・ピーターソンらとともに、非常に優れたレフェリーの一人である。彼のレフェリングを見ていると、選手への注意の仕方やストップのタイミングには確固たる判断力が感じられる。乱入は、勝敗が決したかどうかコミッショナーが確認するタイミングになされた。マクレガーは一応謝罪をしたようだが、そもそもレフェリーサイドに因縁をふっかけること、さらにゴダードのような優秀なレフェリーを逆恨みの騒動に巻き込むことなどは、やはり批判されなければならない。

2017年11月12日日曜日

[MMA]
ダスティン・ポワリエvs.アンソニー・ペティス(UFC Fignt Night Norfork)
「ダイアモンド」ポワリエはこれまで「来そうだな」というところでスワンソン、マクレガー、マイケル・ジョンソンに敗けてしまい、前のアルバレス戦がノーコンテストに終わったということで、実力十分だがトップ視されてこなかった選手だ。一方の「ショータイム」ペティスはPV映像を見る限り、イジー・マルティネスのレスリング指導を受けてケージレスリングを強化していることがわかる。かつてのベンソン・ヘンダーソン戦の腕ひしぎでの決着やチャールズ・オリベイラへの勝利から見ても、さらにグラウンド面の強化に努めてきたと思われる。だがATTのポワリエの戦略は、そこをむしろ柔術で攻めてくるものであった。
ポワリエといえば打撃のイメージが強かったが、戦績を見ると確かにサブミッションでもこれまでにかなり勝利数を稼いでいる。今回は第一ラウンドから打撃を見せつつ、距離を潰すダッシュ気味のタックル→グラウンドという展開へ持ち込み、バックを何度も奪う。一発の極めがあるペティスのサブミッション(キムラ)も、ケージを活用しながらうまく防いでいた。ポワリエはパウンドと柔術の技術を非常に滑らかにつなぎ、ペティスを流血させつつボディロックと激しいグラウンドの攻防で弱らせてゆく。第三ラウンド、スタミナも切れないままにポワリエがバックからマウントに移行した所で、ペティスをタップに導いた(肋骨が折れた?)。むろん第一ラウンド最後のパンチの交換も見所だったが、ポワリエがペティス相手に柔術スキルで勝負をかけていった点(ペティスの三角も何度も防いでいる)に、この試合のポイントがあった。どうあっても「隠し武器」的な位置づけであるペティスの柔術を狙い正面勝負を挑んだ、作戦勝ちとも言えるだろう。


2017年11月7日火曜日

[MMA]
時々参考にしている「BJJ Scout」によれば、UFC217のガーブランド対ディラショーのフィニッシュシーンは、2Rでディラショーがキック中心に作戦を変更後、ガーブランドの右が届かないアングルに回り込んでパンチの交錯をできたのが勝因と分析している。なるほど。

2017年11月5日日曜日

[MMA]
スティーヴン・トンプソンvs.ホルヘ・マスヴィダル(UFC217)
コディ・ガーブランドvs.T.J.ディラショー(同上)
明らかな逸材パウロ・コスタとジョニー・ヘンドリックスの長い低迷、まさかのヨアンナ・イェドレイチェッチの王座陥落とローズ・ナマユナスの戴冠、またこれも予想外のGSPの復活とマイケル・ビスピンへの勝利ーといったアップセットに満ちた大会だったが、結果としてあまり目立たくなってしまった「ワンダーボーイ」トンプソン対「ゲームブレッド」マスヴィダルの息詰まる戦いも、非常に見ものであった。

現代MMAでは空手の技術がやはりどちらかと言えば軽視されており、ジョー・ローガンやダニエル・コーミエの解説でも若干それが感じられたのだが、それはひょっとしたらこの両者にその技術への体感がないからなのかもしれない(私はローガンの解説に多くの場合同意するし、コーミエはとても好きなファイターだが)。半身に構えてコンタクトされる面積を少なくし、両手はガードする代わりに下げて打撃の起こりを読みにくくした上で、ディフェンスはフットワーク・ボディワーク・そして距離感で行うという体系は、トンプソンのように十分にリーチのある熟練者が実践すると恐ろしく有効な武器となる。
マスヴィダルは堅いガードとパワーで対抗し、第二ラウンドは多少盛り返したように思えたが、試合巧者にして戦略家の「ゲームブレッド」に対しても終始距離を支配し続けたトンプソンの優勢は、基本的に揺るがなかった。どのような相手に対しても当てられなければ基本負けない訳で、ウッドリーのような化け物的瞬発力を持った相手には通じなかったものの、空手系の技術はマクレガーやGSPのスタイルの中でも生きている。トンプソンのような純粋なアメリカン空手の使い手は貴重な存在である。
ガーブランド対ディラショーは、誰もが注目していたファイトだろう。近年のUFCは特にマクレガー以降どうでもいい争いを焚き付けて敵対性を盛り立てており、食傷気味というか資本主義の性(さが)を見せつけられて嫌気が差しているのだが、かつては同門の彼らが持つ技術体系の同じ部分と違う部分が見られる点で非常に興味深かった。
ガーブランドのしっかり折り畳まれた状態の腕から繰り出される右ショートフックとストレートは極めてスピーディかつ強力で、相手の左の内側から抉るように顎をとらえ、ほぼこれでKOを確実にするものだが、これはアルファメールのスタイルでもあるのだろう。ポスチャーの強固さ、そして強いプレッシャーとスピードによってこのパンチが生み出される。これで第一ラウンドの終わりにTJからダウンをとったが、ブザーもあり決めることはできなかった。
対してディラショーは、ガーブランド的な剛のスタイルに対してそれを脱構築的に組み立てられたものだ、と言えようか。過去の試合を見ても一発で決める力はあるのだが、今回は(ドミニク・クルーズにも最早似ていない)相手を伺うような姿勢から、蹴りで牽制しつつフックのコンビネーションを出していくパターンで、第二ラウンドの終わりに勝負を決めた。ディラショーの前屈みの姿勢にガーブランドが釣り出され、前のめりでパンチの交錯をしてしまった所がガーブランドの敗因だろう。スピードは明らかにガーブランドに分があったが、「間合い」や「距離」の取り方・感じさせ方というものの重要性を見せつけた試合であった。