2018年5月18日金曜日

UFC224:ヌネスvs.ペニントン

アマンダ・ヌネスvs.ラケル・ペニントン(UFC224
ブラジル・リオデジャネイロで開催されたナンバーシリーズ。大分時間が経ってしまったので、周辺情報や考察中心で好きなように書く。
大会自体で話題となった一つは、リョート・マチダヴィトー・ベウフォートにおける顎への前蹴りでの2RKOだ。
ベウフォートがこの蹴りでKOされたのは、誰もが思い出すようにアンデウソン・シウバ戦(UFC126)と同じだった。ベウフォートは試合後引退を宣言したが、これはレジェンドである両者にとって、負けた方への「花道」となる試合だったわけだ。引き際としては、ブラジルというホームでブラジル人に負けるというのは悪くない。
しかしリョートは、手を振ってベウフォートの気を散らした後、相手の重心が前足にかかった瞬間を見切ってあの蹴りを放つという、狙いすました一撃を出した。リョートにとって、いまだ一線級の戦いができることを周囲に示した一戦だったと言えよう。蹴り姿も文句ない見事さである。
もう一つの話題は、マッケンジー・ダーンが計量をなんと7ポンドオーバーしたにもかかわらず、アマンダ・クーパーをRNCで下してしまったことだろう。
MMAに計量問題は常につきまとっているが、そこがボクシングとの開きでもある。先日の比嘉大吾の計量ミスは、彼が沖縄の期待を担っている形になっているためもあり見ていて辛い感じがしたが、 山中慎介と対戦したルイス・ネリの計量オーバーとともに厳しい処分を受けた。
これは、端的に言えばボクシングとMMAの歴史の違いが現れてもいる事柄だ。
元々はベアナックルが洗練されたものとして競技化されたボクシングは、19世紀に大英帝国の優位性を見せつけるスポーツとして植民地支配に役立っていった。どれだけ現地の人間の身体的な条件がよくとも、厳密なルールと戦い方を熟知している者には勝てないので、ボクシング技術を用い肉体的にもイングランド人の優位性を示してゆく機会とされたのである(と、かつてジョー小泉が言っていた)。
一方、MMAは諸説あるにしても、元としては柔術的発想と、無差別級的な戦闘の想定を大括りにして持っていると見なせよう(ここからは推測)。
もともとは剣術や槍術等に対して、戦場での素手での組討を「柔術」と呼んだのだろう。しかし、近代において嘉納治五郎が(講道館)柔道を「道」という「表」の競技にしたため、その裏面として「道」以外の実戦的格闘「術」としての展開を見てきたわけだ(武徳館の柔術はその意味で講道館とはコンセプトが違ったろう)。
戦闘を念頭に置いているため、基本的な発想が無差別級であり、誰でも相手にしなければならないとする態度はMMA全体でどこかしら共有されている感じがある(「バーリトゥード」もこの線で同様だろう)。
つまりスポーツの歴史からすれば、ボクシングにはルールを厳正化する必要があった経緯があったのに対して、MMAはそれに単純に倣うかたちで競技化をしてきた(だけの)後発組なのである。
MMAは直接的には植民政策と関係がないが、オリンピック化されるスポーツ競技との緊張関係は常に持っている。競技として認められたいが、一方で戦闘性を失うことも恐れているという境界線の上に立っているのだ。
MMAはスポーツとしての認識を広めるためにルールを整えてきたにもかかわらず、無差別級的な戦闘性からも脱皮し切らない両面があるのは、このためだろう。
しかし、MMAから戦いの要素が抜けないのであれば、戦いの作法の問題も同時に出てくるはずではないだろうか。
どういうことかと言えば、MMAが戦いだとした場合、それは騎士の一騎打ちや武士の果たし合い的な戦いなのか? あるいは、あらゆる手立てを用いて勝つことが至上であり、その手段を選ばない様子こそが評価されるのか?(例えばゲリラ戦もあり、これは正規軍に対するパルチザン的な戦闘行為として、一つの作戦というか戦い方を示すものでもある)…等という、戦いのスタイルと関わる問題が出てくるのである。
戦争にも一種の作法があることを想起する必要がある。つまり、実態としては勝った者勝ちの殺し合いである戦闘の中からも、「名乗り合い」や闇討ちを卑怯とする態度が要請されたり、あるいは条約締結などが現れるという、「戦争後」と関わる視点は外せないはずなのだ(下は三十年戦争後に締結されたウェストファリア条約図)。
まあ言わば、ダーンは「正戦」の中で闇討ちをした形なので、卑怯だと非難されるのは当然ということだ。「契約」という約束がある以上、この問題は重視されなければならないものだ。彼女の人気が高くなければ、試合が実行されたかも怪しいレベルである。
あのRIZINさえギャビ・ガルシアを出場させなかったというのは、計量オーバーでも出場になるだろうという甘い見込みへに対して、「あまり舐めるな」というメッセージだったとも言える。
ということで、事はいわば名誉の問題にも関わっている。対戦相手のクーパーに対しても、この敗戦への名誉回復の機会は与えられて然るべきだ。不正な理由で選手がやられ損になるところを見たい人は、そんなにいない。もちろん言うまでもなく、不要な怪我防止の観点からも大事である。階級のなし崩し的な脱構築は避けなければならない。
だがいずれにせよ、ダーンの技術はまだMMAとして雑すぎる。必ずや今後どこかで敗戦するだろう。その際立ち直れるのか、あるいはジーナ・カラーノロンダ・ラウジーのように燃え尽きてしまうのか。それまでの技術の向上が望まれる。
それに比べれば、アマンダ・ヌネスはかつてヴァレンチーナ・シェフチェンコと2戦行った際、MMAの女性選手の中でも最高級のレベルにあることをすでに遺憾なく証明している。シェフチェンコのトータルファイターとしての完成度は極めて高いが、それと息詰まる戦いを繰り広げてきたヌネスの実力については改めて説明の必要もない。
今回は1Rからロー、また襲いかかるような右フックでペニントンの動きを釘付けにしていった。ペニントンはもっと足を使って左右に揺すぶるべきだったと思うが、ケージ際に詰められて足を止めてしまい、打撃を喰らってゆく。それだけヌネスのプレッシャーが強いのだろう。肩幅の広さもあり、打撃がしなるように入る。両者ともにムエタイベースだが、同じスタイルでは明らかにヌネスに分がある。
2Rも同様の展開。ラウンド最後にヌネスの首相撲からの膝蹴りを掴み、打撃戦で不利なペニントンがテイクダウンを仕掛け成功するも、抑えきれず終了。
3R以降はヌネスがペニントンの打つ手を潰してゆき、リーチを取りながら的確な打撃を当てる一方的な展開。 ヌネスがテイクダウンも取り、ペニントンを削ってゆく。
4Rも同様だが、明らかにペニントンに疲れが見え動きが鈍っている一方、ヌネスはスタンドでもグラウンドでも主導権を取り、ダメージを与え続けた。終盤には首相撲からの膝を何発も連打して入れてゆく。
5Rに入るインターバル中、ペニントンは「終わり」と弱音を吐いたが、セコンドは続行を指示した。これも後からネットで議論となっていたが、ペニントンは全局面でヌネスに抑えられ、もう何をすればよいかわからない状態だったのだろう。
ダメージ的にもうこれ以上は危険という状態でなければ、ここで投了にするかどうかは難しいところだ。気力が折れた時点で負けは決定でも、次に繋がるかどうかという問題がある。この意味で、続行させたセコンドが間違っていたとまでは私は思わない。
ヌネスはこのラウンド、打撃とまたテイクダウンを取り混ぜ、中盤でバックを取り側頭部にパウンドを注いだところでレフェリーストップ。相手に勝ち目を感じさせない、気持ちを折る完封試合であった。
今回は実力において総合的にヌネスが圧倒しており、全局面で相手に勝利するという意味では理想的な試合だったろう。ヌネスとシェフチェンコは女性選手の中で、ともに現代MMAにおいて他の選手の一歩上のレベルを実践している、抜きん出た存在となっている。