ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ イタリア人の物語』より
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実は、十九世紀後半のイタリアの社会主義運動は思想面で曖昧であった。イタリア極左の始まりは、リソルジメント(統一のための闘争)の指導者の一人で、統一と共に社会の再生を主張したジュゼッペ・マッツィーニの共和制思想に求められるが、彼は階級闘争の原則を受け入れなかった。イタリアで社会主義運動の基礎を築いたのはロシアの無政府主義者バクーニンである。彼は、極貧で重税にあえぐイタリア農民の状況が革命につながる可能性を見抜いていた。実際のところ、農業地帯、特に状況がより悲惨な南部の地方では暴動が起こることもよくあった。バクーニンはまず、イタリア国境近くのスイスに移り、少数であっても、すでに多くの地方で活躍していたアナーキストを中心に革命的左翼運動を編成しようとした。
一八七四年八月、バクーニンは機が熟したと考え、ボローニャに移り、彼の指導を受けたロマーニャのアナーキストたちは武装蜂起を試みたが、それは悲惨な結果に終わり、バクーニンはスイスへ逃亡し、革命家を志す者の大部分が検挙された。その中に、当時二十代だったアレッサンドロ[・ムッソリーニ]もいた。……
一八八二年、友人のアンドレア・コスタがミラノで労働者社会党を設立したときには、アレッサンドロは初期加入者の一人となり、彼の工房は社会主義の宣伝の中心地となった。組織者としての才能があったアレッサンドロは地域に党を根付かせることに成功し、無政府主義に共感を抱き続けながらも、社会党の民主路線を現実的に受け入れたのであった。一八八二年の選挙でコスタはイタリアで最初の社会党の代議士となったが、その当選にはアレッサンドロも寄与している。この選挙で社会党の候補が当選したのは、投票権が読み書きのできる二十一歳以上の納税者に拡大されたからである。その結果、有権者は総人口の二パーセントから一挙に九パーセントまで増えたのであった。